「ジェ-ンエア」「嵐が丘」の小説で有名なブロンテ姉妹はヨークシャーの丘陵地帯のはワースの牧師館で育ちました。現在、その牧師館はブロンテ家の遺品を陳列する博物館になっています。街の周りにはブロンテ姉妹の小説の背景となったヒースに覆われた丘があります。

1820年ブロンテ一家は牧師である父親の赴任先としてハワースに移ってきました。父親はアイルランドの貧農の息子から、勉強して牧師になった人で、生まれの悪さを隠すため、ブロンディーだった苗字をブロンテとフランス風にしていました。一家は夫婦と子供6人です。引っ越してきてからまもなく母親が病気で亡くなってしまいます。もともと社交的でない父親は1日の大半を書斎で過ごし、食事もそこに運ばせて子供たちとは別に食べ、家政と育児を引き受けた伯母も、石畳の冷たい居間を嫌って2階の自室に上がったきりほとんど下に降りて来ません。子供たちは大人の世界から切り離されたばかりでなく、近所の子供と遊ぶことさえ頑固な父に禁止され、自分たちだけの小さな閉鎖社会を作りました。8歳の姉のマライアが母代わりです。夏は村はずれの広い荒野で遊べるけど、冬は冷たい薄暗い家の中に居るしかありません。他に面白い遊びも無いので幼い6人は小さな声でそれぞれの気ままな空想がつくりあげる物語を聞いたり、聞かせたりするようになりました。

まもなく上の4人の姉妹は隣の県の貧しい牧師の子女のための寄宿舎学校に入れられます。教科も規則もスパルタ式、食事は乏しく、衛生環境がひどく悪いなか、上の2人は結核で死亡し、シャーロットとエミリーは退学してようやく家に逃げ帰ってきました。以後はシャーロットが母代わりになり、残された4人の兄弟は一層緊密な閉鎖的な共同体を作ります。彼らの最大の楽しみはやはり物語り作りでした。4人は休みなく想像力を働かせ空想ばかりでなく限られた生活体験や知識のすべてを物語に注ぎ込みました。父の宗教談や政治論、伯母の思い出話、ハワース界隈の噂話など。父親の書斎にあるスコット、ワーズワース、バイロン、シェークスピアなども読んでいく端から物語に採り入れました。

10代後半になると資産の無い牧師の娘たちは、結婚のための持参金も無いので、どこかで自活の道を求めなければならなくなりました。その頃堅気の女性に開かれている職業は学校教師か住み込みの家庭教師だけでした。姉妹は3人とも勉強好きでしたし、特にシャーロットは意欲的に働きました。しかしエミリーはどこに行ってもハワースへの強い郷愁にとらわれてしまうのでした。

貧しい牧師の収入の中から父親と3人娘はひとり息子ブランウェルの画家になろうとする希望に協力し、精一杯の学費を捻出しましたが、彼が世に認められぬうちに酒に身をもち崩して、31歳の若さで死んでしまいます。彼が死ぬ直前まで、足繁く通ったパブ、ブラック・ブルは博物館のすぐ近くに現存します。

エミリー自筆の詩の草稿を見つけた、シャーロットは「こんなにすばらしい詩は是非出版すべきだ」と説得しました。相談の結果、アンも含めて姉妹3人の作品を1冊の詩集にまとめ、男のようなペンネームで自費出版することになりましたが、翌年5月に出版した詩集は、たった2冊しか売れませんでした。3人は平行して、小説を書き始めました。シャーロットは「教授」、エミリーは「嵐が丘」、アンが「アグネス・グレイ」です。シャーロットは早速出版社と交渉しましたが、どこも引き受けてくれません。そこで彼女は2作目の「ジェーンエア」を書き始め、この作品は1847年10月に刊行、たちまちベストセラーになりました。そのおかげで、2ヶ月後には「嵐が丘」と「アグネスグレイ」も出版することができました。しかし「嵐が丘」の評判はあまり良くなく、傑作といわれるようになるのは、エミリーの死後50年たってからです。

小説出版の1年後にエミリーは医者を呼ぶのを拒み、薬も一切受け付けず、衰弱しきって30歳の若さで死んでいきました。次の年にはアンが29歳で療養先で亡くなります。残されたシャーロットも1855年3月に39歳で亡くなり、父親はシャーロットの婿とこの家に住み続け、1861年に84歳で他界します。

ブロンテ姉妹は短命といわれていますが、実はハワース村では長生きした方なのです。当時は食糧事情も悪く、衛生環境もかなり悪かった(普通の家にはトイレはなかった)ので、ハワース村の平均寿命は24.6歳でした。子供の半分は幼児(6歳未満)で死んでいったのでした。だから84歳まで生きた父親なんて化物(!)のような生命力があったのです。