チャールズ・ダーウィンが、「種の起源」を執筆した家はロンドン郊外にあり、現在イングリシュ・ヘリテージが管理しています。
英国海軍測量船ビーグル号の艦長が南米、南洋諸島、インド諸島の航海に同行する博物学者と探していると知った恩師がダーウィンを推薦してくれた時に人生の転機が訪れます。彼を牧師にしようと思っていた父親には反対されましたが、伯父の二代目ジョシュア・ウェッジウッドに説得の手紙を書いてもらい、乗船が実現します。1831年ダーウィン22歳のときでした。当初2年と言われていた航海は5年になり、ダーウィンは船酔いと望郷の念に悩まされましたが、この旅で進化論を熟成させていきます。特にガラパゴス諸島では島によってカメやトカゲの種類が違うことを知り、生物の進化に関する強い印象をダーウィンにもたらしました。
帰国後は航海中に採取した膨大な量の標本の整理をしたり、「ビーグル号航海記」を執筆したりして過ごします。29歳のとき、従姉のエマ・ウェッジウッドと結婚します。夫婦はしばらくロンドンに住みましたが、健康状態が優れないダーウィンのため、1842年にケント県ダウンの家に移り住むことになりました。彼は人里離れたダウンで、残り40年の生涯を、生物学の研究と論文の執筆に費やすことになります。
1859年「種の起源」の初版を出版します。ダーウィンの進化論は教会から猛烈な圧力を受けましたが、ダーウィンの理論に賛同する若い学者たちが攻撃を受けてたち、彼自身は常に温和で、論争に巻き込まれることを避けていました。ダーウィンが最も気を配らなければならなかったのは、熱心なクリスチャンである妻のエマでした。華やかなウェッジウッド家に育ちながら、片田舎のダウンに住み、病弱な夫を助け、10人の子どもを産んだエマの悩みは、夫が無神論者だったことでした。ダウンの家の居間には、ショパンに師事した夫人愛用のピアノがあります。
ダーウィンは1882年に亡くなるまで、「種の起源」に書ききれなかったことをまとめ、資料を集めては地味な研究を続けました。ダウンの家では、ダーウィンが研究に没頭した書斎、実際に彼が愛用していた家具、研究に使った器具や収集品、そして研究のために植物を育てた温室などを見ることができます。