やきものの種類

狩猟採集生活から、農耕牧畜の定着生活に移行した新石器時代、人類は土をこねて形をつくり、火で焼き固めて丈夫なものにすることを発見しました。焼物には、土器、b器(ストーンウェア)、陶器、磁器 があります。日本やヨーロッパでは、粘土を成形して焼くのが陶器、長石分の多い陶石という石の粉と磁土を混ぜて成形するのが磁器と呼びますが、中国では焼成温度が1000度以下の焼物を陶器、1000度以上のものを磁器と呼んでいます。また、中国では釉薬のかかった焼物はすべて磁器と呼んでいます。ヨーロッパ式に考えると青磁は陶器になります。ウエッジウッドのジャスパーウェアはb器になります。

中国の陶磁器

 新石器時代

中国で土器が作られたのは紀元前7000年頃といわれています。同じ頃オリエントでも土器文化が始まっています。紅陶、彩陶、黒陶、白陶などが造られましたが、一般の生活には灰陶と呼ばれる、実用的な灰色の土器が多く用いられました。

殷(15世紀BC-10世紀BC)、周(11世紀BC-256BC)、春秋戦国(770BC-221BC)、秦(221BC-210BC)

釉薬は一般的には木灰釉で、灰釉は1000度以上の高火度で溶けてガラス質の皮膜となり、焼物の器表を覆います。水漏れを防止し、耐久性を強める効果があります。中国では殷・周時代の施釉陶器を原始磁器または原始青磁と呼んでおり、春秋戦国時代に発達しました。また、印文硬陶という施釉されないストーンウェアも使われていました。春秋戦国時代の原始磁器は青銅器の器形や文様を忠実に写しています。

戦国時代には、焼成した灰陶に赤や黒や白などの絵具で彩色された加彩陶器が作られています。中国では、と呼ばれる墓にいれる陶製の人形が多く作られました。有名な秦の始皇帝の兵馬俑は、灰陶に赤、黒、白などの彩色が加えられた加彩陶器で、等身大の兵士や将軍、文官、武官、馬が始皇帝陵を取り巻く地下坑の中に整然と配置されていました。

漢(202BC--220)

原始磁器の停滞時代になりますこの時代に実用品として使われていたのは、金属加工製品と漆器であり、陶器はまだあまり使用されていませんでした。

墓の副葬用に鉛釉陶器(鉛に酸化銅を加えると緑釉陶器、酸化鉄を加えると褐釉陶器になります)で、楽人、舞人、料理人、農民、家屋、犬など、バラエティに富んだ俑が作られています。

三国(222-280)、晋(265-316)、五胡十六国(304-439)、南北朝(439-589

器表にたっぷりと青磁釉がかけられ、安定した青緑色の発色をした高火度焼成のやきものを青磁といいます。三国時代になると急激な生産増加と発展をみせます。三国時代は墓の副葬品でしたが、南北朝時代に生活器が中心となり、広い地域に広がりました。

三国時代に俑の副葬は少なくなりますが、南北朝時代になると鎮墓獣やシャーマンなど宗教的俑が加わります。仏教が興隆した時代なので、彫刻的にすばらしい俑が作られています。

隋(581-618)、唐(618-907)、五代(907-960)

鉄分の少ないカオリン質の高い白い素地に、不純物の少ない精良な灰釉をかけ、高火度で焼成したやきものを白磁といいます。6世紀後半から華北地方で焼き始められ、隋時代に生産が盛んになります。唐の時代は「南青北白」と呼ばれ、南部には青磁、北部には白磁を焼く窯が多かったようです。

唐三彩は白磁に緑釉、褐釉、藍釉、白釉など複数の色釉をかけ合わせたもので、8紀前半に副葬品として盛んに作られました。人物、馬、ラクダ、家屋、生活器(壷など)があり、ラクダの上に歌手や楽隊が乗ったものもありますが、すべて副葬用であり、墓室に通じる道の壁面に設けられた小室に収められていました。三彩俑だけではなく加彩俑や金彩を施したものもあります。王陵墓では1000体を越す俑が副葬されました。しかし唐時代後半には、俑の副葬が急激に衰えます。 

北宗(960-1127)、金(1115-1234)、南宗(1127-1279)

宗時代は文化、芸術が最も発達した時代であり、国民の生活は豊かになりました。中国全土に陶磁窯が築かれ、独自の特徴を持った焼物が造られました。

長沙窯は古くから青磁を生産していました。鉄や銅を使って花文や鳥文を柚下に描いた独特のものもあります。

越州窯も古くから青磁を生産し、輸出の中心になっていました。朝鮮の高麗青磁は越州窯の影響を受けています。日本の奈良・平安時代の遺跡からも大量に出土しています。

磁州窯は中国最大の窯で、日常生活品すべてを作りました。鉄分を含んだ粘土に化粧土をかけ、その上に透明釉をかけた陶器が基本ですが、装飾法は多彩で、青磁や白磁に比べ絵画的な意匠を積極的に取り入れているのが特徴です。金時代には白化粧した地に鉄絵具を用い筆で花や鳥、人物、山水、魚藻などすばやく描いた白地黒花装飾が流行しました12世紀には白磁の上に低火度で溶ける鉛釉を用いて文様を描き再度焼成する五彩という技法が創案されています。

定窯は北宗の白磁の中心であり、周辺が石炭生産地だったので燃料は薪から石炭へと変化しました。そのため、白磁の色は黄みがかった発色となりました。焼成法も伏し焼きで、口縁に釉をかけないため、焼成後に盤の口縁に金や銀や銅の覆輪をかぶせたものがあります。

耀州窯は唐草や蓮弁の浮き彫り風に彫りこんだ独特な青磁があります。金時代にはオリーブ色をした青磁が多くなります。

釣窯は、金時代に、青磁釉に銅紅釉を加えることによって、複雑な発色を可能にしました。(パーシバル・デウ゛ィッドにたくさんあります)

龍泉窯では南宗時代に青緑色の美しい釉色の砧青磁を完成しました。国内向けの日用雑器ばかりでなく、宮廷用に釉薬の厚い青磁も焼いており、周辺アジア諸国にも青磁を輸出していました。日本では鎌倉・室町時代に唐物として非常に珍重されました。

景徳鎮窯では磁土と釉薬に鉄分を含んでいるので、青みのある白磁ができます。装飾はシンプルで、軽く、器種もさまざまで、国内向けの日常雑器の他、アジア各地に膨大な量が輸出され、エジプトの遺跡からも大量に出土しています。

南宗時代の特徴的な黒釉磁器に天目茶碗があります。天目山に修行をした日本の禅僧が持ち帰った茶碗が黒釉碗であったころから天目茶碗と名付けられました。結晶が白く浮かび光で虹色に輝く建窯の曜変天目、黒釉地に木葉を貼り付けて焼いた吉州窯の木葉天目などがあります。

元(1271-1368)

モンゴル人クビライの征服した帝国は北京を都とし、支配圏はユーラシア大陸全土に広がりました。モンゴル民族による交易、市場の確立は中国の陶磁器の名声を広めることになります。

青花は14世紀前半に景徳鎮窯で誕生しました。白磁の釉下にコバルトで絵付けをし、透明釉をかけて高火度で焼成した彩画磁器で、コバルトは焼くと青く発色します。主なコバルトは中近東から輸入されました。元時代の青花の特色は大作が多く、緻密さがあり、イスラム圏に多く輸出されました。景徳鎮では他に、コバルトを全面にかけた瑠璃釉磁、銅紅柚を全面にかけた紅釉磁も作られました。

龍泉窯では飛青磁と呼ばれる斑点文様を施した青磁も作られていました。

磁州窯では白地黒花陶器や、黒花に褐彩、緑彩を加えた五彩風陶器が作られますが、もっぱら国内向けでした

明(1368-1644)

技術力、生産力ともに秀でていた景徳鎮だけが着実に発展を遂げる中、宗や元の時代に優れた作品を焼造していた窯の多くは活動を縮小していきます。明時代も景徳鎮の主流を占めるのは青花で、元時代よりも器形はシンプルになり、菊や牡丹など唐草を多用した文様に、余白を多く取る構図となりました。青花はイスラム圏への主用貿易品となり、橘皮文と呼ばれる釉面に細かくかすかな起伏のある優美なものが作られます。花と同じ技法ですが、銅の顔料を用いて文様を描く釉裏紅も14世紀中ごろに多く焼造されました。明時代末期にはオランダ東インド会社との貿易も行われ、輸出磁器生産が盛んになりました。

青花は民窯でも作られ、日常品としても需要を伸ばしました。15世紀頃に文様の背景や場面の転換に独特の雲形を描く雲堂手と呼ばれる作品があります。

明時代後期になると、白磁や青花を焼造しその上に鉛釉を用いて文様を描く五彩が景徳鎮窯の主流を占めるようになります絵筆を用いて文様を描き赤、黄、緑の色調と、開発された紫、黒などが加わり、華麗な施彩がおこなわれるようになります。輪郭線を青花で描き、輪郭線内に透明感のある色釉をうめて再度焼成する技法は豆彩も焼造されました。上絵顔料で文様を描いて焼成した後、金箔を貼り付けて文様を表した金彩は、日本にも多くもたらされ金襴手と呼ばれて珍重されています。

清(1616-1912)

清の建国に伴う動乱の中で、景徳鎮は戦乱に巻き込まれ、生産は大幅に停滞しました。

康煕官窯が、青花、釉裏紅、五彩の中心になります。ヨーロッパの科学技術に興味を持った康煕帝の命により、景徳鎮において研究開発されたものに粉彩(ガラスの粉末を顔料としたもので、五彩の顔料が焼成を経てガラス化することで色彩が得られる)と琺瑯彩(すでに発色している色ガラスの粉末に鉛粉を混ぜて作られる顔料は、絵付けの段階で色彩が把握でき、焼成で色彩を定着させる)があります。この顔料は絵画の顔料と同じように絵付けをすることができるもので、宮廷画家などが動員され、皇帝の趣向に合った、質の高い純粋絵画が陶磁器文様の主役になりました。初めは素地に直接七宝風な絵付けをしていましたが、後に滑らかな釉上にも施彩可能になり、花鳥、山水、竹石が描かれ、余白に文様に適した詩句が流麗な文字で記されるようになりました。

顔料も臙脂紅や白色顔料が開発され、特に白色は下地顔料としても用いられ、微妙な色を表すことが出せるようになります。
色釉も研究され、漆器や銅器などの忠実な模倣作品が作られました。
19世紀になると国力の低下と同時に、陶磁器の質も低下します。中国磁器の欧米への輸出は1840年に始まるアヘン戦争によってほぼ終結します。

 

朝鮮の陶磁器

 百済・新羅

土器の時代を経て、7世紀の百済では緑柚を施した陶器が焼造されています。9世紀の新羅時代に、中国の越州窯青磁の影響を受けて、朝鮮でも青磁が作られ始めました。

 高麗 (918-1392)

12世紀になると中国の磁の影響を離れ、「翡色」と呼ばれる澄んだ青緑色の気品に満ちた高麗青磁が作られるようになり、透かし彫りなどのさまざまな装飾が加えられるようになります。12世紀後半には、象嵌技法が発達し、高麗青磁の中心的な装飾技法となりました。銅を含んだ顔料を用いることによって上品な紅色を発色する辰砂という技法や、釉下に鉄絵具で文様をあらわす青磁鉄絵も盛んに作られました。

しかし13世紀にモンゴル人の侵入が始まり、高麗青磁は高麗王朝の衰退と共にその姿を消します。

李氏朝鮮時代 (1392-1910)

李朝になると青磁に代わって、粉青沙器が中心になります。粉青沙器は灰色の胎土の上に白土を用いてさまざまな技法で装飾を施した陶器の総称です。高麗時代と比べて産地は大きく拡散します。15世紀には象嵌や菊花文のスタンプを一面に押しそこに白土を埋めた印花という技法が盛んに施されます。その後、刷毛を用いて白土を塗った塗跡がそのまま装飾になる刷毛目や、器表全面に塗られた白土を削り取って模様をあらわす掻落しの彫三島などが作られました。また、15世紀から16世紀にかけて鉄絵具を用いて文様を描く鉄絵が盛んに行われました。16世紀後半になると、ほとんどの窯が白磁窯に転向していき、粉青沙器は姿を消してしまいます。

15世紀前半にはすでに雪のように白い上質の白磁が完成されていました。15世紀後半にはコバルト顔料を用いて青花磁器の焼造が始まっています。後にコバルト顔料の入手が困難になると、鉄絵具で鉄砂の技法が盛んに行われました。

16世紀末、豊臣秀吉の侵略によって、国全土が戦火にまみれ、各地の窯は大きな打撃を受けました。多数の陶工が日本に連行され、生産は著しく停滞しました。

1639年から1717年まで釜山にある窯で、高麗茶碗と呼ばれる日本の茶人向け(輸出用)の茶器が焼かれました。

19世紀後半になると外国勢力の侵入によって社会や経済は混乱し、国力は衰退して、朝鮮陶磁器の伝統は衰退の一途をたどっていきました。

 

日本の陶磁器

伊万里

ヨーロッパの王宮で見られる日本のやきものは伊万里です。そのほとんどが貞享、元禄、享保(1690年から1730年)に有田(佐賀県)で作られた古伊万里になります。トルコでは純金と同じ価値で取引され、ザクセン侯国のアウグスト王は十数個の磁器と数十人の兵士とを交換したという伝説もあります。

江戸時代は有田で作られ、近くの伊万里港から出荷されたやきものを伊万里と呼んでいましたが、明治時代以降は有田町で製作されたものを有田焼、伊万里市で製作されたものを伊万里焼と呼びます。

1610年ごろ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に連れてきた李朝の陶工によって、日本で初めての磁器生産が有田で始まりました。当初から鍋島藩では陶工に優遇措置をとるなどして磁器の生産に力を注いで来ました。

将軍や特定の大名への贈答品として藩窯で作られたものを「鍋島」といい、厳しい管理体制のもと、藩お抱えの絵師によって図案が考えられ、細部まで丁寧に描かれた格調高い製品ですが、一般には知られていませんでした。

輸出用伊万里は、「柿右衛門」といい、1640年に酒井田柿右衛門が始めた窯でつくられた磁器で、1659年にオランダ東インド会社から大量の注文を受け、ヨーロッパ輸出時代が始まります。オランダ側の注文に応じるため、成分配合など試行錯誤が繰り返され、純白の薄くて軽くて強い磁器が誕生しました。乳白色の素地に鮮やかな色彩で描かれた絵は日本人の眼にはあまり触れることなく、ヨーロッパへと輸出されました。オランダ東インド会社との輸出貿易は1757年で終わります。

1828年有田で大火事があり、多くの職人が有田の町を捨てて他の地域に移住してしまいます。それによって、各地で磁器の生産が始まることになりますが、一方有田では、優れた職人がいなくなり、品質は低下し、生産も落ち込みました。鍋島藩は復興に尽力をつくし、オランダとの貿易も再開しました。庶民生活に結びついた雑器の量産に方向転換すると同時に、輸出用製品には浮世絵や風俗絵を題材に扱ったものが作られました。

幕末・明治になってヨーロッパへの輸出が活発になってくると、元禄期に全盛を誇った金襴手(色絵の上から金彩を加える装飾)が再び脚光を浴びるようになり、元禄期のものと間違えられるくらい似ているものが作られました。

薩摩

サツマウェアで有名な薩摩焼(鹿児島県)の歴史は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に、約80人の朝鮮の陶工を連れて帰ることから始まります。

17世紀に白土を発見、「白もん」と呼ばれ、クリームがかった象牙色の地肌に色絵や金襴手を施した豪華なやきものが生まれます。細やかな透かし彫りの技術も見所で、花瓶、茶器、香炉などが作られました。江戸時代には薩摩藩主の御用品として焼かれ、一般の人の目に触れることはありませんでしたが、明治時代以降は海外に輸出され、高い評価を受けました。

また、火山灰や軽石が混ざり、鉄分が多く含まれた土による「黒もん」は、酒器や壷や甕など、素朴で丈夫な日用の器として親しまれています。

九谷

17世紀に焼かれた古い九谷焼は、実は九州の有田で焼かれていました。

加賀(石川県)の九谷焼は再興九谷と呼ばれ、1823年京焼の名工を招き、加賀藩の保護により、金沢市の春日山に窯を築かせたものです。紫、黄、緑、赤、青の五色を「九谷五彩」といい、華やかで、高度な絵付けの技術が発達しました。丹念に仕上げられた美術品で、一般的ではありませんでした。

千利休が茶の理想を追求し、実現する過程で誕生したのが、楽焼の茶碗です。モノトーンで絵付けもなく、ろくろを一切用いずヘラで削って形作っていく技法で、感触、形、色合いのすべてを茶人の好みに合わせ、精神性を追求しました。利休に指導されたという初代長次郎が豊臣秀吉から「楽」の印字を受け、やきものを楽焼、長次郎一族を楽家というようになりました。楽家はそれ以降400年間、京で最上の茶陶だけを焼き続けてきました。

美濃

現在美濃(岐阜県)は日本の陶磁器の大半を生産する大窯業地です。戦国時代に、信長、秀吉、家康と三代の天下人に使えた大名であり、利休の死後茶の世界の指導者的立場に立った古田織部は自由奔放で大胆な変化のあるやきものを好みました。織部の影響のもと、美濃の陶工と戦乱を避けて瀬戸から流れてきた陶工らによって、それまでにない斬新なスタイルの茶碗が作られるようになりました。ゆがみやひしゃげに美を見出すという感覚は日本だけのオリジナルです。

瀬戸

「せともの」の故郷、愛知県瀬戸市は現在でも陶磁器生産地です。古墳時代から窯が開かれ、平安時代には全国に先駆けて施柚陶器が作られていました。鎌倉時代には中国の陶磁器を手本にした高級な施柚陶器が焼かれ、全盛期を迎えます。しかし、戦国時代になると、瀬戸周辺は戦場になり、陶工は美濃に逃げてしまいます。江戸時代になって尾張藩が陶工を呼び戻し、江戸時代後期には九州で磁器の製法や染付けを学んだ加藤民吉がその技術を広めました。明治から大正にかけては建築材料となる陶器タイルも盛んに生産されました。大量生産で値段を手ごろにし、日用の器として愛され、特徴がないのが特徴です。

 

他にも、萩、信楽、益子、万古、常滑、備前、丹波、伊賀、唐津、などのやきものの産地があります。

 

西洋の陶磁器

 イスパノ・モレスク

ムーア人によって伝えられ、スペインで焼成された錫釉陶器をイスパノ・モレスク陶器といいます。13世紀にモンゴル人がサラセン帝国へ侵入し、各地の窯場が破壊されたため、錫釉陶器やタイルの焼成技法をもった陶工たちを含むたくさんのイスラム教徒がスペインに移住しました。13世紀末から14世紀後半の間にマラガ、ムルシア、グラナダなどスペイン南部で製作された陶器には、コバルトの青とラスター彩で唐草文、組紐文、イスラム文字、生命の樹などが描かれました。1492年のキリスト教徒の失地回復により、イスラム教徒は北アフリカに追放されてしまいましたが、南部の陶工たちは戦乱を避けて東海岸バレンシア地方に移住し、マニセスとパテルナの町がイスパノ・モレスク陶器の生産地になりました。

マヨリカ

マヨリカ島には窯場はありません。バレンシア地方のアニセスやパテルナで焼成された陶器はマヨリカ島に送られて、そこで改めて船積みしてイタリアに輸出されたのでこの名がつきました。やがてイタリアでも模倣され、シシリー島を中心に焼成されました。聖書や神話、ラファエロの絵画にヒントを得たグロテスク文様などイタリア独自の装飾を発展させました。16世紀になると、徐々に実用性を離れ、絵画や彫刻と同様にルネッサンス芸術としてメディティ家をはじめ裕福な貴族がパトロンとなって窯を開いて、すぐれた陶工や陶画家を招いて、美術陶器の製作に努めました。テラコッタの彫像に錫釉をかけた彩色の大彫刻製作も始まりました。

メディチ

ヨーロッパで作られた最初の磁器は1574年頃、フィレンツェの工房で作られたメディチ磁器です。石灰泥と白泥土とフリット(ガラス質)を混ぜ、鉛を含む釉を着けて、中国の青花磁器をまねしたものでした。しかし、東洋から磁器が大量にヨーロッパに入ってきて競争に負けたこと、焼成の難しさなどの理由から、製造を止めてしまいます。

ラインb器

ドイツでは中世末期からケルンを中心に実用陶器としてストーンウェアが多量に焼成されていました。珪酸を豊富に含んだ細かい粒子の土を胎土とし、ろくろで成形、素地が柔らかいうちに器の表面に浮き彫りを施し、乾燥させたあと、長時間焼成します。窯の温度が1000度から1200度に達した時、窯の中に岩塩を投げ込むと素地の表面は薄いソーダガラス質の釉薬で覆われます。

デルフト

ネーデルランド地方でも、16世紀初め頃から、イタリア人によってマジョルカ陶器とタイルの生産が始まっていました。1602年オランダは中国磁器を積んだポルトガル船サン・ティアゴ号を拿捕、1604年にもサンタ・カタリ-ナ号を拿捕し、10万点あまりの磁器がオランダに運ばれて競売にかけられました。その事件が中国陶磁器への関心を高め、製陶業の方向を変えていきました。デルフトのマジョリカ工房の中には、中国磁器と間違えられるほど質の高い製品に挑戦した工房も現れました。陶土を純白にするため粉骨を混ぜて、白く薄い陶器を完成、コバルトの青色で景徳鎮窯の青花の模作をしていましたが、1620年以降は絵柄にオランダの風物を取り入れるようになり、細い輪郭線のある素描風の技法を使うようになります。食器として用いられるより、室内を飾る調度として利用されることが多かったようです。

マイセン

ザクセン候とポーランド国王を兼ねていたアウグスト1世(1670-1733)は、東洋の磁器を好み収集していました。1709年ドイツ人べドガーが、3年かけて白い磁器を完成させ、ガラスや七宝の絵付けが行われました。1720年ウイーンから画家のヘロルトが招かれ、鮮やかで深い色調の赤、紫、茶、緑、黄、青を用いた色絵付けが始まりました。ヘロルトは中国風の建物や人物を中心としたシノアズリー調(ヨーロッパから見た東洋。東洋からの品物を忠実に写すのではなく、それらを自由に組み合わせて独特の作品を作り出し、それにロココ、バロック、ゴシックというヨーロッパの様式を混ぜ合わせたもの)の図柄に金彩を加えた豪華な作品を作りました。1725年頃からは形も文様も忠実に柿右衛門の写しを作ります。1730年代には銅版画を写した草花や昆虫などを丁寧に描くようになります。コバルトで絵付けをする技法が完成し、1730年には「ブルーオニオン」(景徳鎮窯の青花の皿に描かれていたザクロの文様を、ザクロを見たことがない絵付師が間違えて玉ねぎを描いた)が大量に生産されました。また、彫像作品も多く生み出されました。マイセンでは各国の王侯貴族からの注文を受けており、紋章をつけた食器や、風景を主題にした食器などが大人数分生産されました。

セーヴル

1673年ごろルーアンにおいて、ガラスと陶器の技法の組み合わせによって軟質磁器が開発されました。17世紀末ごろにはサン・クルー工房、1725年にはシャンティ−イ工房、1735年にはヴァンセンヌ工房で、マイセン写しの柿右衛門の色絵の器を生産しましたが、1756年にセーヴルに移転しました。セーヴルはルイ15世によって優れた人材が投入され、宮廷画家として知られていたブーシェが磁器の文様を描くために登用されたりしました。1757年には華やかなピンク色の釉「ロゼ・ポンパドール」が開発されました。ポンパドール夫人の趣味に反映して、色釉を地に塗り、窓枠を金彩で縁取り、その中に絵付けを施したデザインが流行しました。

リモージュ

1765年サンティリエで質の高いカオリンが発見され、より固く透明感のある硬質磁器が焼かれるようになります。七宝工芸の中心として栄えていたリモージュでも、1771年から磁器の生産が始まります。1778年に王立になった「ロワイヤル・ド・リモージュ」は「ルイ15世」「マリーアントワネット」など宮廷人たちにちなんで薄く透き通るほどに白く美しい陶器を焼き上げました。フランス革命後も生産は続けられ、19世紀には磁器の町として名声を得ます。瑠璃釉地に金彩のアクセサリーが有名です。現在もリモージュには30以上の窯があり、フランス有数の焼物の町です。

リチャード・ジノリ

1737年ジノリ候がフィレンツェ郊外で始めたドッチア工房は、初め柿右衛門や清朝の粉彩を真似て、花や鳥を描いていました。18世紀末頃にはリモージュ地方から上質の磁土が得られるようになり、質がいい磁器が作られるようになりました。小花や果実などがモチーフになっている「イタリアン・フル-ツ」は有名です。「ベッキオ・ホワイト」は白い地が美しく、編みこみのような浮き彫りが特徴です。

ロイヤル・コペンハーゲン

1773年、デンマークでもミュラーが硬質磁器の製造に成功しました。国王クリスチャン7世の保護をうけ、1779年に王室の所有になり「ロイヤル」の称号をもつようになります.「フローラ・ダンカ」は植物図鑑に描かれた花の挿絵を職人が忠実に模写したものです。「ブルー・フルーテッド」はロイヤル・コペンハーゲンの顔で白地に青の模様が描かれており、特に「フルレース」は縁がレース状に透かし彫りされています。

チェルシー

1745年、フランスから学んだと考えられるガラス質の軟質磁器がチェルシー工房で作られました。器形は銀器を手本にしたものが多く、初期の頃は白磁に浮き彫りで装飾を施したものが多く作られていました。1750年には彫像の制作も始まります。1769年ダービー工房と合併されました。

ボウ

1749年にロンドンに設立されたボウ工房の製品は、マイセンよりも丈夫で、どこの製品よりも安くて、使いやすいと評された実用的磁器でした。胎土に動物の骨を粉にして混ぜることで、磁胎を硬く焼くことができるという骨灰磁器技術はボウの工房で最初に開発され、英国のほとんどの工房で採用されました。初期の頃は、マイセンの柿右衛門手色絵磁器を写していました。その後、龍、雲、牡丹など中国的な図柄が多くなり、より薄手の作品が増えます。1756年に転写プリントによる作品を作ったのもボウが初めてでした。

 

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