パルテノンの大理石の彫刻群

ギリシャの首都アテネのアクロポリスの丘に建つパルテノン神殿からの彫刻です。この神殿ができた紀元前5世紀には、ギリシャは統一国家ではなく、ポリスと呼ばれる都市国家が、それぞれ独立してお互いに争ったり同盟を結んだりしていました。それぞれ自分たちの守護神を祭る神殿を丘の上に建て、その回りに町ができました。アテネのアクロポリスは標高165mの岩山で、市街地のほぼ中央にそびえています。丘の上のパルテノン神殿は市内のどこからでも見ることができます。

紀元前5世紀のペルシア戦争後、アテネはエーゲ海に面したおよそ150の都市国家に呼びかけて、ペルシアの脅威に対抗するための共同安全保証体制を作り上げました。これをデロス同盟といい、軍船を持つ国家は軍船を、持たない国家はその国力に応じて拠出金を提供するというのが取り決めとなりました。同盟に集まる巨額の資金を管理するのはアテネでした。政治家ぺラクレスはこの膨大な資金を独断で加盟国の同意なしにパルテノン神殿の建設に流用してしまいました。

紀元前432年、パルテノン神殿は完成しました。神殿は東西の破風の大彫刻をはじめ、外周は92面のメト-プ浮き彫り、内室の壁の上は全長163mのフリーズ彫刻で飾られていました。中には高さ13mの女神アテナ像があり、身体は象牙、衣装は金で作られていましたが、5世紀にコンスタンチノーブルに移された後、壊されてしまいました。建物は西暦4世紀ローマ帝国末期まで当時の姿のままだったと伝えれれています。7世紀の末、東ローマ帝国の時代になって神殿はキリスト教会に改造され、その時キリスト教徒はパルテノン神殿を飾っていた彫刻を異教の神々の偶像として削り取ったり破壊したりしました。その後ギリシャは1453年に東ローマ帝国を滅ぼしたオスマントルコ帝国の支配下になります。

17世紀、パルテノン神殿はトルコ軍の弾薬庫として使われていましたが、トルコと戦争を続けていたイタリアのベニスの軍隊がアクロポリスを包囲し、砲撃を加え、一発が弾薬庫に命中し、大爆発を起します。2000年以上にわたって美しい姿を守っていkタパルテノン神殿は、この時から廃墟と化します。

19世紀初め、エルギン伯爵トーマス・ブルースが、駐トルコ大使としてイスタンブールに着任しました。彼は初めから考古学に興味があり、残されていた彫刻を神殿から取り外し、船でイギリスに運び、ロンドン市内で私的に展示されました。1816年イギリス議会はエルギンが持ち帰ったパルテノンの彫刻の国家買い上げと大英博物館での展示を正式に可決しますが、価格はエルギンが彫刻の取り外し作業と輸送のために投じた私財62400ポンドの約半額の35000ポンドでした。公開の後エルギンがもってきた大理石の彫刻の評価は次第に高まって、ヨーロッパの人々が古代ギリシャ文明の進化を知るようになったのは、このエルギンの大理石の彫刻のおかげであるといっても良いでしょう。また、絵画においては、ラファエル前派の女性像に影響を与えています。

現在、彫刻はドゥヴィーン・ギャラリー(部屋の長さはパルテノンと同じ、幅は半分、柱は実物大)に、パンアテナ祭の行進を主題としたフリーズ、女神アテナの誕生が主題の東の破風、アテナとポセイドンの戦いが主題の西の破風、ケンタウロスとの戦いが主題のメト-プなどが展示されています。

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