19世紀の英国にはナショナル・ギャラリーやヴィクトリア&アルバートなど世界有数の美術館がすでに存在していましたが、英国美術コレクションの充実が叫ばれていました。角砂糖の製造特許で富豪になったヘンリー・テートが「政府が用地を提供するならば、自分の絵画コレクションと建設資金を提供する」と申し出て、政府はミルバンク刑務所跡地を提供しました。1897年ヘンリー・テートが寄贈した67点の絵画を基に開館しました。

 

フラット・フォードの製粉所(コンスタブル)

コンスタブルはサフォークの裕福な製粉業者の長男として生まれました。23歳のとき、ロイヤル・アカデミーの学生としてロンドンに来て以来ロンドンとサフォークで半分ずつ時を過ごしましたが、40歳で幼馴染のマリアと結婚してからはロンドンに定住し、サフォークはたまにしか訪れませんでした。しかし子供時代をすごした風景に対する愛着は以前にも増しており、この作品はサフォークのスタウア川の情景を描いた一連の大作の最初のものです。水門の向こうに見える建物は父所有の製粉所です。

外国はおろか国内すらほとんど旅行することなく、身近な風景ばかり丹念に観察して描きました。しかし当時の人々にとってコンスタブルの風景はただの田舎でしかなかったし、みずみずしい色彩を表現しようとして荒いタッチで描いたことが批判を呼びました。しかし彼の絵を見たジェリコが感動し、1824年パリのサロン展に出した「干し草車」が金賞を受け、フランスで有名になり、絵も売れました。しかし招待されてもパリには行きませんでした。52歳でアカデミー正会員。61歳で亡くなり、ハムステッドの教会に眠ります。イギリスの田園を描くことに生涯を捧げたコンスタブルが祖国よりフランスで評価されたのは皮肉です。

 

自画像(ターナー)

ジョセフ・マロード・ウイリアム・ターナーは1775年にコベントガーデンの床屋の息子に生まれました。小さい頃から絵が上手で、床屋の壁に掛けた何枚かの絵を見た客の牧師が友人のアカデミー会員に推薦し、14歳からロイヤル・アカデミーの美術学校に通い始めます。15歳のとき、ロイヤル・アカデミー展に水彩画を出品し好評を集めました。17歳ごろからターナーは銅版画の原画となる風景画を描いて生活費を稼いでいました。固形絵具とスケッチブックを持って、毎年夏に田舎に出かけ、膨大な量のスケッチを作りました。

流行画家になり、アカデミー正会員になった27歳のとき、フランスとスイスを旅行しました。ナポレオン戦争終結後に44歳でイタリアを旅し、イタリアの光を体験したことによって、ターナーの光への関心が強まりました。晩年の作品では抽象的とも言える形式を使い、白い油絵の具を重ねることによって半透明にぼかした効果を出すことに成功しました。印象派に影響を与えています。父親が食事の世話からキャンパスの準備まですべてを取り仕切ってくれましたが、54歳のときに父が亡くなり、その後は20歳年下のブース夫人と言う未亡人と暮らしました。晩年は彼女のチェルシーの小さな家で制作に没頭しました。1851年テームズ川沿いのチェルシーのいえで息を引き取りました。 

 

ベータ・ベアトリクス(ロセッティ)

ロセッティは1828年ロンドンに生まれました。父親はイタリアから政治亡命した学者で幼い子供たちにダンテの魅力を語って聞かせました。教養あふれる両親のもとで育てられたロセッティは詩作にふけるかたわら、絵画の勉強のためにロイヤルアカデミーの付属美術学校に進学しました。20歳になると美術学校で学ぶことを放棄し、ミレイやハントたちと「ラファエロ前派」を結成しました。22歳の春、帽子屋で働いていた19歳のエリザベス・シダルと出会い、彼らの絵のモデルになってもらいます。32歳のときにロセッティはエリザベスと結婚します。しかし、彼はウイリアム・モリス夫人のジェーンに恋していましたし、ファニー・コーンフォースというモデルとも関係がありました。病弱な妻は心労を重ね、結婚2年目に鎮静剤として常用していた阿片チンキを過剰服用して死んでしまいます。自らを責めるロセッティーは不眠症になり、大量に酒を飲みます。そして、この絵を8年かけて、描きました。若くして亡くなったベアトリーちぇが天国へ召されていくというダンテの詩をエリザベスの死に重ねて描きました。白いけしを運ぶ鳥は死の使いです。背景はフィレンツェの町。緑の服がダンテ。赤い服は愛。日時計は死んだ時間。

 

プロセルピナ(ロセッティ)

1857年ロセッティが壁画制作の仕事でオックスフォードに滞在していたとき、劇場で美しい女性を見かけます。劇画に描こうとしていた王妃ギネヴィアのイメージそのものだったので、モデルになってもらうように頼みました。ロンドンにいた婚約者のシダルに手紙で呼び出され、製作を中断しなければならなくなり、弟子のウイリアム・モリスが絵を引き継ぎました。そしてモリスとジェーンは恋し、翌年には婚約、1年後に結婚しました。モリスは裕福な家の出身ですが、ジェーンは馬丁の子です。身分違いの結婚は「マイ・フェア・レディ」のモデルになりました。出合ったときからジェーンはロセッティに魅かれていましたが、彼には婚約者エリザベスがいたので諦めました。しかしエリザベスの死後、ロセッティはジェーンへの思いを断ち切れず、彼女をモデルに描き続けました。プロセルピナはギリシア・ローマ神話の女神で冥界の果実ざくろを口にしたため、1年の半分を冥界の神の妻としてすごさなければならなくなりました。ロセッティは夫と恋人との間で揺れるジェーンの姿を神話に託して描いています。

 

オフィーリア(ミレイ)

シェークスピアの4代悲劇のひとつハムレットの4幕7場。恋人のハムレットに父親を殺されたおフィーリアは正気を失ってしまいます。きんぽうげ、イラクサ、ひな菊などで花冠を作り、それを柳の小枝に掛けようとして小川に落ちてしまいます。川面に浮かびながら歌を口ずさみ、流されて溺れ死んでしまいます。ミレイは背景にふさわしい風景を求め、ロンドン南西サリーのユーエルのハグスミル川の土手に出かけ、7月から4ヶ月間葉の1枚に至るまで自然をリアルに写生しました。モデルのエリザベス・シダル(ロゼッティの妻)は下からランプで温めただけの水風呂に入り、室内で4ヶ月以上ポーズを取り続けました。ついにモデルは風邪をひき、ミレイは50ポンドの慰謝料を支払っています。オフィーリアを描くためにミレイは銀系刺繍で覆われた豪華な年代もののドレスを大金を払って購入しました。バラは若さと美貌、ケシは死、パンジーは愛と虚しさ、ひな菊は無垢、忘れな草は私を忘れないでという意味が含まれています。