ひまわり(ゴッホ)

ゴッホはオランダのプロテスタント牧師の息子として生まれました。美術商や教師、牧師といったさまざまな職業についた後、画家になりました。パリで画家修業をしたあと、35歳のときにプロヴァンス地方のアルルに向かいます。芸術家村を作ることを夢見て、友人のゴーギャンを呼び寄せました。ゴーギャンがアルルに到着する前の夏、ゴッホは自分の家を装飾するために一連のひまわりの絵を描き始めます。ゴッホは花がかれてしまうまでに全部で4枚の絵を仕上げましたが、そのうち2点のみをサインしてゴーギャンの寝室の壁にかけるに足りる作品だと判断しました。それがナショナルギャラリーのものとミュンヘンのものです。1889年1月ゴッホはまったく同じ複製を3枚描きます。ゴッホにとって黄色は暖かさの象徴でした。

 

 

糸杉と麦畑(ゴッホ)

ゴッホは南仏に画家たちの共同アトリエを作ると言う夢を持っていましたが、その誘いに応じた唯一の友人であるゴーギャンともうまくいきませんでした。二人の間には口論が耐えなくなり、ある夜ゴッホはかみそりを持ってゴーギャンの後を追い、にらみ返されると自室に戻って耳たぶを切り落とし、なじみの娼婦に届けています。事件の翌日、別れの言葉も告げずにゴーギャンはアルルを去りました。その後、ゴッホはアルルの病院に収容された後、サンレミの精神病院に移されました。サンレミの療養所で外出が許されるようになったゴッホが何度もスケッチに出かけたのが糸杉のある風景で、糸杉の連作を描きます。古来ヨーロッパで「死」の象徴として描かれてきた糸杉にゴッホもまた暗い死の影を見ていました。1年後パリの北西約30kmにあるオーベールに移り、宿屋の屋根裏部屋に落ち着きます。そして2ヵ月後ピストル自殺します。村の共同墓地に弟のテオと並んで葬られています。ゴッホの生前に売れた絵は「赤い葡萄畑」1枚だけ。テオはそんな兄に送金を続けました。ゴッホの死の直後、画商が評価され始めた彼の絵を売りに出したときも「ひまわり」(オークションで59億円)とアイリス(73億円)は売れ残ったと言われています。

 

花(ゴーギャン)

ゴーギャンはパリ生まれですが、7歳までペルーで過ごし、17歳のときに船員になります。35歳のとき、株の仲買人の職を失い、10年前からはじめていた絵画に専念することにしました。彼はいろいろな国に行った経験から都会的な文明や合理性に対して懐疑的になり神秘へのノスタルジアを抱くようになりました。印象派の画家たちと出会い、グループ展などにも参加しましたが、しだいに彼らの考え方を受け入れられなくなりました。1888年アルルのゴッホのもとに滞在したあと、1891年タヒチに移り住みます。熱帯の太陽の下で、彼はついに自分が捜し求めていた感覚的な生き方をみつけたのでした。「花」は1896年にタヒチで描かれ、ドガが買い取ったものです。

 

ファア・イヘイへ(ゴーギャン)

1891年、43歳のとき、初めてタヒチを訪れたゴーギャンは2年におよぶ滞在の間に「タヒチの女たち」など70点もの名画を描いて帰国した。しかしパリではタヒチで描いた絵はまったく売れず、失望した彼は、再びタヒチに行き、この島で彼は土地を借り、家を建て、タヒチの女パウラと暮らしました。この絵は、ゴーギャンがパリの万国博覧会で見たボロブドゥール寺院のレリーフに感銘を受け、レリーフから影響を受けたと思われるポーズが群像表現、動物の描き方がたびたび登場します。1901年マルキーズ初頭に移り、1903年5月に他界しました。亡くなったとき部屋には1894年にブルターニュで描いた雪の村の絵がかけられていました。彼の死後遺品が競売にかけられましたが、雪を知らない人たちはこの絵に「ナイヤガラの滝」というタイトルをつけました。

 

雨傘(ルノアール)

ルノアールは1841年磁器の街リモージュの職人の子として生まれました。13歳で陶磁器の絵付け見習い隣、絵付け職人として腕を磨いたあと、本格的に絵を学ぶためグレールのアトリエに入門。モネやシスレーたちと交流を深めます。サロンで入選と落選を繰り返しましたが、印象派を代表する画家になります。40歳ごろアルジェリア・イタリア旅行後、アリーヌと結婚、3人の子供ができます。「雨傘」はこの頃の作品で、画面左手のかごを持つ女性はルノアールの妻アリーヌがモデルだといわれています。彼はこの頃から印象派の手法を離れ、デッサンを重視し、華やかな色彩は消えます。晩年はリュウマチ療養のため南フランスに転居し、1919年78歳で亡くなっています。

 

 

サン・ラザール駅(モネ)

モネはパリ生まれですが、幼い頃両親とル・アーヴルに移住しました。18歳でパリの画塾に通いますが、ルーヴル時術間での模写やデッサンばかりの授業に反発します。画塾で知り合ったピサロ、ルノアール、シスラーとの交流が始まります。1870年代後半まで、モネは郊外やリゾートなどの風景を描きました。1877年にモネはサン・ラザール駅を12点描いています。この駅からは故郷ル・アーヴルに向かう汽車が出発していました。何度も利用するうちに、蒸気機関車と駅のざわめきが織りなす雰囲気に興味を持ったらしいです。1870年代初めに英国に行き、ターナーやコンスタブルの作品に感銘を受け、帰国後「印象・日の出」を発表します。ここから「印象派」という名前が生まれました。

 

睡蓮(モネ)

モネは1883年、42歳のときにパリから西へ80kmの字ベルニーという村に移り、86歳の最晩年まで44年間住みました。1890年代になってから名声と財を得たことで、1892年に地所を買い求め池のある東洋庭園と、花々で満たされた西洋庭園の2つの庭園を造りました。モネは日本の芸術品を集めており、日本を称賛していたので、日本の池をまねて、水に睡蓮を浮かべ、池のほとりには日本から取り寄せた菖蒲や柳を植え、橋に藤棚もかけました。1899年庭園に最も豊かに草木が生い茂ったとき、太鼓橋の連作10点に着手しました。池を造ってからひたすら睡蓮の浮かぶ水面を描きました。オランジュリ美術館に並べると90mになる睡蓮の絵があります。食堂の壁一面に浮世絵を飾っており、そこにマネ、シスレー、ピサロ、ルノアール、セザンヌなどが来て、モネとともに食事を取りながら浮世絵を楽しみました。

 

箕をふるう人(ミレー)

ミレーはノルマンジー地方の信仰の厚い農家の長男として生まれました。シェルブールで修業した後、市の奨学金を得てパリに出ます。画家として高い評価を得ようと、肖像画や歴史画など、さまざまな分野を試みた後、農民画が自分の気質にあっていると確信しました。1848年、2月革命で共和派が王政を倒すとルーブル美術館は大衆や農民を描いた絵の展示が増やされ、サロンも無審査になりました。ミレーはこの「箕をふるう人」を出品し、絶賛されました。絵は内務大臣が買い上げ、政府から絵の注文も舞い込むといった経済的効果も伴っていました。しかしパリは混乱し、翌年にはコレラも流行します。1849年6月、政府からの作品の代金を得て、ミレー一家はパリから南へ60kmのバルビゾンに移り住み、「種を蒔く人」に取り掛かりました。ここでミレーは農村で働く人々を描き、農民画家として高く評価されます。晩年、名声と富を得た彼は富の一部を慈善のために寄付したり、貧しい若い画家を援助したりしています。

 

モワテシエ夫人(アングル)

アングルは1780年フランス南部のモントーバンで生まれました。父親から、絵とバイオリンを習い、26歳から44歳までイタリアに滞在。55歳から61歳までも、ローマのフランス・アカデミー院長としてイタリアに住みます。この絵は、裕福な銀行家の妻を描いたもので、1844年に注文されましたが、その後たびたび構図が変更されています。衣装は少なくとも3回は替えられており、最終画面では花模様の更紗木綿のドレスを着ています。右手の人差し指で頭を支えるポーズはローマ時代の壁画に由来します。彼女の横顔は後ろの鏡に現実ではありえない角度で映し出されています。彼女の肉体は完璧な丸みを持ち、なだらかで輝かしく描かれています。 

 

干草車(ジョン・コンスタブル)

コンスタブルは1776年、サフォークの裕福な製粉業者の子として生まれました。この絵に描かれているのは、ストゥーア川のフラットフォード水車場(コンスタブルの父が所有)のそばの農夫ウィーリー・ロットのコテージの眺めです。夏に描いたスケッチや習作をもとに、冬のロンドンで制作しました。1821年のロイヤルアカデミー店に出品しましたが、あまりいい評価は得られませんでした。1823年にフランスの美術商に売却、1824年にパリのサロンで展示し、高い評価を受けました。

 

 

戦艦テメレール号(ターナー)

テメレール号は1805年のトラファルガーの戦いで有名になりましたが、この絵が描かれた1830年台にはナポレオン戦争の軍艦はみな老朽化し、帆船から蒸気船に変わりつつありました。解体されるために引かれていくところを、夕日を背景に描きました。ターナーはこうした新旧の変化に常に関心を抱いていました。

 

チャールズ1世(ヴァン・ダイク)

フランドルで画家の修行をしたダイクは1618年助手としてルーベンスの工房に入りそこで先輩の様式や製作法を吸収しました。1621年から27年のイタリア滞在中、ダイクは熱心にティティアーノを研究しました。1632年、熱心な芸術の保護者であったチャールズ1世はフランドルからダイクを呼び寄せました。1641年になくなるまで、王家や宮廷の人々の肖像を描き続けました。

 

 

流れで水浴する女(レンブラント)

 レンブラントは大学町ライデンの風車のある製粉業の家に生まれました。カルヴァン派が公式宗教であるオランダでは祭壇画を描くチャンスは与えられなかったので、個人コレクターのために神話や聖書の諸場面を主題にした作品を数多く制作しています。想像力と光と影、質感のコントラクトによって絵画をドラマチックに神秘的に描くことに成功しています。「流れで水浴する女」は一見レンブラントの愛人のヘンドリッキエが小川を歩いて渡っているのを描きとめたように見えますが、川岸に置かれている金と深紅色の衣装は水浴をする女性が神話の登場人物であることを示唆しています。18世紀になると、レンブラントの人気が高まったので、画商たちは弟子たちの模作を誤って、または金儲けのために、真作として大量に売ったため、1969年までレンブラント作といわれる絵は500を超えていました。現在レンブラント調査委員会の鑑定の結果、約半数が真作でないと判定されています。

 

  

34歳と63歳の自画像(レンブラント)

レンブラントには、約60点の自画像があります。これほど一貫して自分を描く仕事に執着した画家は珍しいのですが、若いときは表情や明暗の研究のため最も身近のモデルとして、晩年は注文も途絶え、妻や子も亡くなり、自己の内面に向かわざるをえなかったからだと考えられています。年代順に自画像を見ていけば、一人の芸術家の生涯に触れることができます。

23歳− 17世紀オランダの黄金時代でアムステルダムは繁栄にわきかえっていました。大きな邸宅を建て、邸内を家族の肖像画で飾るのが当時の新興商人の流行でした。                 若きレンブラントにも応じきれないほどの肖像画の注文が来ました。才能はたちまち商都の評判になりました。

28歳− 裕福な家柄のサスキアと結婚し、彼女を通して上流社会にも顧客層を広げます。

34歳− 昔の自画像の不安げなまなざしは消え、成功を誇示しているような顔をしています。前年33歳で豪邸を買い、骨董の収集に夢中になっていたころです。

36歳− 妻サスキアが亡くなり、幼い子どもを養育するために雇った家政婦との間に愛憎や金銭を絡んだ争いが起きます。レンブラントは浪費家で財産管理能力が無かったため、              大邸宅を買ったときの借金が溜まっていて返済のために新しい借金を重ねるというサラ金地獄のような窮地に陥ります。

40代− 悲しみと失意に荒れた内面が隠されています。眉間のしわの険悪さが見る人をたじろがせます。

50代− 二人目の家政婦がよき伴侶として寄り添っていましたが、破産宣告を受け、邸宅と財産すべてを失い、54歳の時に街外れのみずぼらしい家に移っていきます。                    自画像に暮らしに疲れた人の顔を読むことができます。

57歳− 二度目の妻が死に、まもなく息子も亡くなります。

63歳− 彼が亡くなる半年前の自画像です。すべてを悟っているようにも見えます。威厳が表れています。

 

ヴァージナルの前に立つ若い女(フェルメール)

フェルメールはデルフト生まれで、オランダの日常生活の光景を主題とした作品で有名です。数点の例外を除き、室内で手紙を読んだり、書いたり、楽器を弾いたり、日常的なしぐさをする女性を描いています。ほとんどの絵は画面左側から光が差し込んでいます。この絵はフェルメールの室内画の中では最も明るい絵です。窓から射し込む光を背に受け、鍵盤に手を置きこちらを見ている逆光の女性。その上にはカードを持ったキューピッドの絵がかかっています。壁の下にはデルフト焼きのタイルが並んでいます。

 

バッカスとアリアドネ(ティツィアーノ)

1490年にアルプス山麓の村で生まれました。ベネチアで修行し、20代後半ですでにベネチアを代表する画家としての地位を確立していました。パトロンには、イタリアの主要な貴族、ベネチア共和国政府、ローマ教皇、神聖ローマ皇帝、フランス国王、スペイン国王などがいました。この絵はフェラーラ公アルフォンソ1世が書斎を飾るため、「バッカス祭」をテーマに依頼したものです。テセウスがミノタウロスを倒す手助けをしたアドリアネはナクソス島の浜辺に置き去りにされました。そこへバッカスがチーターを引く凱旋車に乗って、にぎやかな供を連れてやってきます。車から飛び降りるバッカスとアドリアネ葉見つめあいますが、体は逆向きにひねって対照的です。左上には二人の結婚を象徴する星の冠が見えます。空のウルトラ・マリン・ブルーなど、ベネチアでのみ入手可能な絵の具を使った高価な絵です。

 

教皇ユリウス2世(ラファエロ)

1483年イタリア東部ウルビーノ出身のラファエロは25歳のとき、ローマ法王ユリウス2世に招かれヴァチカン宮殿の「署名の間」の壁画などを作成しました。サン・ピエトロ寺院の主任建築家や古代遺跡発掘監督官にも任命されました。ユリウス2世は戦う教皇とも呼ばれ、軍隊を率いて前戦に赴く一方で、ルネッサンス最大のパトロンとして多くの芸術家をローマに招きました。サンピエトロ寺院の新築、疫病の蔓延、荒廃したローマを立て直し、教会の威厳を取り戻すために力を注ぎました。ラファエロは物思いにふける年老いた高位聖職者を私たちがすぐ近くに立って、眺めているように感じるように描きました。緑色のカーテンに教皇の鍵が金色で描かれていましたが、途中で方針を変更して消しました。左手勝ちから津用人物を示し、右手が貴族的な人物をあらわします。

 

キリストの埋葬(ミケランジェロ)

彫刻家、建築家、画家、詩人であったミケランジェロは1475年イタリア中部のカプレーぜに生まれた。生まれてすぐ、石工の家に里子に出され、20歳で早くも代表作「ピエタ」「ダビデ」を完成しています。1512年システィーナ礼拝堂の天井画、1541年には同礼拝堂の壁画「最後の審判」を完成します。晩年にはサン・ピエトロ大聖堂の設計と建造を担当しました。ミケランジェロによるいた絵は極めてまれで、完成品はフィレンツェのウフィツィ美術館にあるトンドドーニしかありません。「埋葬」はローマのサン・タゴスティーノ教会内の礼拝堂のためにミケランジェロが1500年9月に着手、1501年春フィレンツェに赴く祭に放棄したとされる祭壇画です。25歳の若きミケランジェロはこうした規模の作品を描いた経験はありませんでしたが、独創性を持ってこの仕事にチャレンジしました。右に描かれるはずの人物は、息子の死を嘆く聖母マリア。聖母の青い衣に用いられるラピスラズリが届くのを待っているうちにフィレンツェに赴くことになりました。

 

岩窟の聖母(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

この絵はミラノのサン・フランチェスコ・デル・グランデ教会の祭壇画として描かれました。これよりも早くに描かれたものが、フランス王に売却され、現在ルーブル博物館にあります。(そうダヴィンチ・コードに出てきた絵です)左の子供が洗礼者ヨハネ。右がキリスト。ろうそくの明かりに照らしだされた礼拝堂では、岩石の下の暗がりの中から人物が現れることで、神秘的な洞窟が連想されたことでしょう。