フォリ・ベルジェールのバー(マネ

 

若い頃から粋なパリジャンとしてならしたマネは、音楽会やカフェに足繁く通い、その情景をキャンバスに描きました。モンマルトルの一角にあるフォリー・ベルジェ-ル・カフェでは舞台演奏や軽演劇の上演が行われ、「カンカン」や「ベリーダンス」などの流行をいち早く取り入れる店として有名でした。ホールの隅にはバーカウンターがありました。

この作品でマネは鏡を画面いっぱいに使っています。中央の若い女性とバーカウンターの酒瓶、果物以外はすべて鏡の中の世界です。マネは鏡を使うことにより、カウンターの女性の正面と後姿やカフェの賑わいなど、描きたいものすべてを盛り込むことに成功しました。

1年がかりでこの作品を仕上げ、1882年のサロンで絶賛されます。しかしその翌年には壊疽のため左足切断、そのあとすぐに51歳で亡くなっています。マネは刺すような痛みと手足の麻痺に苦しみながらこの作品を描いたのです。

 

 

 

 

桟敷席(ルノアール)

 

ルノアールは1841年磁器の町リモージュの職人の息子として生まれました。13歳で陶磁器の絵付け見習いとなり、絵付け職人として腕を磨いた後,本格的に絵を学ぶためにグレールのアトリエに入門し、モネやシスレーたちと親交を深めます。サロンでは入選落選を繰り返しました。

この作品は1874年第1回の印象派展に出品されて好評を得たものです。観劇は当時パリの都市生活を描いた画家たちに好まれたテーマのひとつでした。画中の二人はルノアールの弟エドモンドと職業もデルのニニです。女性の顔は入念に描写されていますが、胸を飾る花や衣装は大きな筆触によって表現されています。

 

 

 

 

舞台の二人の踊り子(ドガ)

 

ドガは裕福な銀行家の長男としてパリに生まれました。現実の人間に興味があったドガは、競馬、洗濯女、カフェの歌手、帽子店の売り子、娼婦を繰り返し描きました。デッサンを基礎とみなしていたので、大量の予備習作を作りました30代から視力の低下に悩み、油彩よりも目を近づけて描けるパステルを多用し,コントロールされた光のもと、アトリエの中で描くのを好みました。さらに、目が悪くなると彫刻を制作しました。

1870年代初頭に踊り子をシリーズで描き始めます。発表当初から好評で、ドガの名声を高めました。

 

 

 

自画像(ゴッホ)

 

ゴッホはオランダ生まれで、パリで画家修業をした後、南仏に画家たちの共同アトリエをつくる夢をもって、ブロヴァンスのアルルに向かいました。しかし唯一の友人ゴーギャンとの間に口論が絶えなくなった、ある夜、ゴッホはかみそりを持ってゴーギャンの跡を追いかけます。にらみ返されると、自室に戻って耳たぶを切り落とし、馴染みの娼婦に届けています。ゴーギャンは事件の翌日別れの言葉も告げずアルルを去っています。

この作品は、事件の直後に描かれました。背景に描かれた浮世絵は佐藤虎清「風景の中の芸者」です。

その後、ゴッホはサンレミの精神病院に収容され、翌年オヴェール・シュルーオワーズに移り、そこで自殺します。

 

 

 

サント・ヴィクトワ-ル山(セザンヌ)

 

ポール・セザンヌは1839年南仏の古都エクス・アン・プロヴァンスに生まれました。セザンヌは町の東にそびえる標高1011mのサンク・ヴィクトワ-ル山を繰り返し描きました。油絵だけでオ40点になります。

エクスの南西にベルジュという松林に覆われた高台があり、妹ローズが土地を購入しました。この作品は、その高台からマルク渓谷越しに望む、サント・ヴィクトワ-ル山を描いたもので、右手のアーチはマルク川にかかる鉄道橋です。セザンヌはこの作品と同じ位置から、同じ山を10数点描いています。

 

 

 

草上の昼食 (マネ)

 

1862年夏、サロンに出品する絵を何にしようかと考えていたマネはセーヌ川でボート遊びや水浴に興じている人々を見ているうちに、ジョルジョーネの「田園の奏楽」という絵と組み合わせた裸体画を描くことを思いつきました。マネはかつてルーブル美術館でこの絵を模写し、その背景の暗さに不満をもっていました。

1863年のサロンにこの作品を提出しましたが、落選。落選者展にこの絵を出品しました。真っ先に目に飛び込んでくるのは、女性の肌の色の明るさですが、視覚的効果を狙ったマネの挑戦は、斬新過ぎて当時の人々にはまったく受け入れられませんでした。